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祭りで繋がる「江戸の粋」

第1回 掛川市横須賀 田中興平さん

江戸天下祭等、お祭りで繋がる地域の人々の祭りに対する熱い思いと千代田区との関わりなどを語ってもらいます。第1回目は江戸天下祭にも参加いただいた掛川市横須賀の田中興平さんにお願いしました。

「神田明神祭礼絵巻」中に、同じ姿の山車が残る

桜も咲き誇る4月の第1金・土・日の3日間、遠州地方の祭りのトップを飾る遠州横須賀三熊野神社大祭が盛大に行われます。 この大祭の見どころは、神輿の渡御(とぎょ)とお供に従う華やかな13台の祢里(ねり)の引き廻し。笛と太鼓が奏でる祭囃子、そして「シタ、シタ」の掛け声とともに町中を威勢よく曳き廻される祢里(ねり)の、勇壮かつ華麗な姿に人々も引き込まれ、町は祭り一色となります。横須賀では、山車のことを「祢里」(ねり)と呼びます。この祢里の曳き廻しは神輿渡御のお供としての性格を持ち、各種神事の付け祭りとして発達してきました。 この祢里の形態は「一本柱万度型」といわれ、江戸中期の天下祭を克明に描いた「神田明神祭礼絵巻」の中に、ほぼ同一のものが見られます。 この形態を持つ山車は、発祥の地、東京ではすでに姿を消し、現在ではこの横須賀地区とその近隣に残るのみで大変貴重なものです。

三熊野神社大祭の歴史

三熊野神社大祭の付け祭の起源は古文書を繙(ひもと)いていくと元禄九年(1696年)である。その当時は踊り を中心とした付け祭を行なっていた。その後西尾隠岐守忠尚が横須賀城の城主に就任すると、享保十年頃(1725年)に江戸天下祭の祭様式を導入して、神輿に供奉して練物、踊りが城に巡行して城主が上覧す るようになった。その後付け祭は色々の変遷があったが現在の三熊野神社大祭の付け祭は町火消しが祭に参加してくる、文化文政期頃の江戸天下祭の祭文化を伝承している。神輿の後に13台の祢里(山車)が 供奉し、祢里の曳き手は神輿を土下座をして迎えるという、神事と一体となった祭を行なっている。三熊野神社大祭の付け祭の特徴は祢里(山車)と囃子と曳き手、掛け声すなわち四位一体となって練る という所作を行なったとき、華麗にして優雅な祭桃源郷を醸しだし、祭全体がリズミカルに躍動する事である

祢里きちを育てた母さんたちが胸を張った

三熊野神社大祭には最近でこそ女性が祭に参加するが、一昔前は女性は祭に参加できなかった。また、 女性が参加すると言っても若い女性だけで、一昔前の女性はどんなに祢里が好きであっても横須賀では恥ずかしさが手伝って祢里を曳くことが出来ない。横須賀で生まれ育った女性達、もしくは嫁いできた女性達は 子や孫を背中におんぶして、または胸にだっこして三社祭礼囃子の調子であやし祢里きち(祭に入れ込む人)を育て上げるが、当時はどんなに祭が好きでも女性が祭に参加するのは御法度であった。祭中は裏方に徹し、料理を作って持 てなすのが三熊野神社大祭の女性の役目であった。それが天下祭のお陰で、六十才は遙か以前に越したと思われる女性達が、法被腹掛けの正装をして親子三代孫と誇らしげに祢里を曳いて丸の内仲通りを行く。 私たちが横須賀の祢里きちを、産み育てたとばかりに自慢げの顔をして。千代田区が天下祭を開催してくれたお陰で、横須賀のまつり人は女性達の積年の思いを遂げさせてやることが出来た。ひいては祢里きち を産み育てた女性達へ最大限の恩返となった。


(2006.3.3 田中興平記)

三熊野神社大祭

三熊野神社

於:三熊野神社

平成8年神田祭参加

平成8年神田祭参加

田中興平氏

皇居前で「祢里」について説明する田中興平氏。遠州横須賀生まれ、横須賀育ちの根っからの「祢里きち」と自称する。